主の晩餐

主イエス・キリストが制定した主の晩餐

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時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である

ルカ22・14-20

キリスト教に関連する絵画には、多くの有名なものがあります。その一つがレオナルド・ダ・ヴィンチによって描かれた最後の晩餐です。この絵画があまりにも有名なので、キリストが弟子たちといっしょにとった晩餐の本来の意味が、理解されていないように思えます。ここでは、キリストは、この最後の晩餐で何を教えているのか、また晩餐のパンとブドウ酒の意味は何かを、わかりやすく説明します。

最後の晩餐

出典 https://ja.wikipedia.org/wiki/

この絵画は、15世紀ヨーロッパのルネッサンスの只中にいたダ・ヴィンチの創作であり、実際にこのような形で食事がとられてはいなかったでしょう。絵画の焦点は、ユダの裏切りにあるようにも思えます。新約聖書の福音書は、キリストがこの晩餐を弟子たちと共にした目的、その意味付けを詳しく述べています。この晩餐の焦点は、ユダの裏切りではなく、むしろキリストが制定した新しい契約の食卓にあると思います。最後の晩餐の時にいったい何が起きていたのでしょうか。その背景をじっくり説明します。

過ぎ越しの祭りの食事

イエス・キリストは弟子たちを呼び寄せ、過ぎ越しの祭りの食事の用意をさせます。この食事が「最後の晩餐」としてダ・ヴィンチが描いたものです。

そもそも過ぎ越しの祭りの食事とは、どんなものでしょうか。どんな意味があるのでしょうか。エジプトの地で奴隷であったイスラエルの民は、主なる神によって奴隷から解放されます。主なる神が、エジプトの人たちに様々な災いを与えた時に、神は同じ災いをイスラエルの民には与えず、イスラエルを「過ぎ越した」のです。この神のわざをイスラエルの人々は、心に刻み決して忘れないために、毎年、(現在の暦で言えば3月から4月にかけて)神の過ぎ越しの祭りを行っていました(出エジプト記12章12節ー17節)。1世紀のユダヤ人たちも、この過ぎ越しの祭りの食事をとっていたのです。

この慣習に従い、イエス・キリストも弟子たちといっしょに過ぎ越しの祭りの食事を食しました。しかし、キリストは、過ぎ越しの祭りに新しい意味付けをしたのです。 

主の晩餐の制定:過ぎ越しの祭りの食事に、新しい意味付けをした

イスラエルの過ぎ越しの祭りでは、羊がいけにえとしてささげられました。キリストは、自らが十字架にかけられる前に、「自分自身がいけにえとして命をささげる」と預言しているのです。ユダヤ人が過ぎ越しの祭りで食べていたパンとブドウ酒に、キリストはこの時、新しい意味付けをします。 

パンと血に関する4つの解釈

パンとブドウ酒の意味には、4つの解釈があります。簡単に説明します。最後に、管理人が理解しているパンとブドウ酒の意味を説明します。

実体説または全質変化説(Transubstantiation)

この学説は、主にローマ・カトリック教会に信じられています。カトリック教会の司祭が、主の晩餐を司りパンをとり「これはキリストのからだです」と宣言する時、パンは実体としてキリストのからだとなり、またブドウ液の杯をとり「これはキリストの血です」と宣言する時、ブドウ液は実体としてキリストの血になるという学説です。

共在説(Consubstantiation)

宗教改革のきっかけを作ったマルティン・ルターによって唱えられました。ルターはカトリック教会の実態説に反論します。パンとブドウ液の物質的な実体は、パンとブドウ液にままであるが、主の晩餐のその場に、主イエス・キリストが存在すると主張しました。「パンとブドウ液」と「キリストのからだと血」が、共に存在するゆえに、共在説と言われます。

象徴説(Sign as Emblems)

ルターと同じ時代に生きた宗教改革者であったヅヴィングリは、パンとブドウ液を象徴的意味で理解しました。パンはキリストのからだを象徴して、ブドウ液はキリストの血を象徴していると主張しました。

霊的臨在説(Christ’s Presence by the Holy Spirit)

ルターとヅヴィングリより数十年若い宗教改革者、ジョン・カルヴィンは、共在節と象徴説の中間点を取るような解釈を展開しました。パンとブドウ液をクリスチャンが受ける時に、聖霊によってキリストは、主の晩餐を頂くクリスチャンの間に臨在していると説いたのです。

野々垣伝道者が理解しているパンとブドウ酒の意味

主の晩餐

野々垣伝道者は、上記に述べた伝統的な解釈よりも広い意味で、主の晩餐のパンとブドウ酒をとらえています。

キリストのからだとしてパンの意味

キリストが「このパンはわたしのからだである」と言った時、キリストはあくまで象徴的に意味合いで言ったと思います。このような例えは、キリストが言った他の多くの表現で使われています。パンが、実体的にキリストのからだに変わることはありません。しかし、キリストが割いたパンには、いくつかの重要な意味があると思います。

  1. キリストは、パンを割いて「分けて食べなさい」と言いました。実は、この行為にも重要な象徴的な意味があります。キリストによって割かれたパンを、いっしょに食べれば、教会に分裂などありえずがありません。クリスチャンは、キリストを分かち合っているのです。
  2. パンがキリストのからだであると同時に、教会もキリストのからだと例えられています。つまり、主の晩餐のパンをキリストから頂く時、教会内の他の人々、主にある兄弟姉妹も覚える事ではないでしょうか。主の晩餐は個人的なサクラメントや礼拝の行いではなく、共同体の礼拝の形と管理人は解釈しています。キリストのからだである教会にいる兄弟姉妹であるクリスチャン同士が、お互いに受け入れ合い愛し合い、一致してパンを食べるように命じていると思います。
  3. キリストは、「わたしは命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言っています。主の晩餐のパンも、命の力あるいは命の源的な意味で使われていると思います。
  4. 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つのことばによって生きる」とキリストは言いました(申命記からの引用です)。物理的なパンではなく、キリストから頂くパン、つまり霊的な栄養な源であるキリストの御言葉によって生きていく事を、クリスチャンは教えられています。

キリストの血としてのブドウ酒

杯に満たされたブドウ酒にも重要な意味が隠されています。

  1. ブドウ酒は、キリストが十字架で流された血を象徴しています。
  2. 旧約聖書によれば、血は命の源を象徴しています。ゆえに、旧い契約のもとでは、人々の罪のために、毎回、羊や山羊がいけにえとして捧げられたのです。新しい契約のもとでは、イエス・キリストのたった一度の犠牲によって、罪が赦されているのです。
  3. ブドウ酒が満たされている杯にも、象徴的な意味があります。杯は、祝福の杯として用いられる時もあります(1コリント10章16節、詩篇116篇13節、詩篇23篇5節)。同時に、主の晩餐では、杯は神の裁きまたは怒りを象徴していると思います。キリストは、弟子たちに「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」と聞きます。この2つの質問は、十字架の死を象徴しています。
  4. それぞれの関連個所 イザヤ51章17節 、 マルコ10章35節―40節 、 マタイ26章36節ー46節 を読んでみましょう。下に引用してあります。
  5. キリストは、私たちの罪のために十字架を負って、罪のためのいけにえとして死にました。同じキリストは、私たちに言います。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。つまり、クリスチャンが、主の晩餐の杯からキリストの血を象徴したブドウ酒を飲む時、十字架を背負って生きていく事を改めて覚える時だと、管理人は信じています。

補足としてブドウ酒かブドウ液かについてですが、1世紀のユダヤ人は、ブドウ酒を使っていたことは確かです。過ぎ越しの祭りの食事においては、水でうすめてブドウ酒を飲んでいたという記録も残されています。私たちの教会では、ブドウ酒ではなくブドウ液を使っています。

目覚めよ、目覚めよ/立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み/よろめかす大杯を飲み干した都よ。

イザヤ51・17

ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

マルコ10・35-45

それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。 誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」

マタイ26・36-46

主の晩餐と律法主義的な誤解

主の晩餐

最後に、律法主義的な解釈によって、主の晩餐の意義が誤解されるケースについて書いておきます。「主の晩餐をとっていれば安心。主イエス・キリストと正しい関係を保てる」という気持ちを持っている人がいますが、これは主イエスが教えている事とは違います。主の晩餐に与ることは、信仰生活の御守りのようなものでは決してありません。

主の晩餐の意味は、主イエス・キリストを覚え毎週、主に従う新興を再確認する時であり、また主の十字架の贖いの死を思い起こし自分の罪を告白する時です。また主の再臨を期待し信仰生活を送る決意を新たにする時でもあるのです。