主の晩餐

なぜ毎週、主の晩餐に与るのか

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私たち横田キリストの教会では、主の晩餐を毎週の礼拝において執り行われます。教派によっては、年2回の教会もあれば、月1回の教会もあるようです。私たちは、なぜ毎週の礼拝で主の晩餐に与るのかを説明いたします。

新約聖書と1世紀の教会が示す模範と証拠

主が復活した日が主の日にされた

主イエス・キリストは、おそらく金曜日の午後に十字架にかけられ死にました。そして3日目、日曜日に主は死から復活しました。1世紀では、日曜日が週の始めの日と考えられていました。

主は、使徒たちに次のように言いました。

エルサレムを離れずに、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によるバプテスマを授けられるからである

使徒行伝1・4-5

主イエスの命令通りに、五旬節が来て週の始めの日に、使徒たちはエルサレムで集まっていた時、聖霊が彼らの上に降ったのです(使徒行伝2・1-4)。この後、ペテロは、ユダヤ人たちに主イエス・キリストの福音を伝えます。その結果、3000人のユダヤ人たちがクリスチャンになったのです。これが教会の誕生日です。

クリスチャンたちは、使徒たちをとおして主イエス・キリストの教えに耳を傾けました。また、毎日、心をひとつにして神殿に集まり、家ごとに集まり、祈り合い、神を賛美し、礼拝を捧げました(使徒行伝2・43-47)。この時以来、1世紀のクリスチャンたちは、この週の始めの日を「主の日、聖日」として定め、礼拝の日にしたと考えられます。

週の始めの日に礼拝を奉げる

新約聖書には「週の始めの日に礼拝しなさい」という明確な命令はありません。しかし、週の始めの日に礼拝したのではないかと推測できる、いくつか例がありますので、それらを検証してみます。

聖なる者たちのための募金については、わたしがガラテヤの諸教会に指示したように、あなたがたも実行しなさい。わたしがそちらに着いてから初めて募金が行われることのないように、週の初めの日にはいつも、各自収入に応じて、幾らかずつでも手もとに取って置きなさい。

1コリント16・1-2

上記の聖句は、週の始めの日に献金が行われていたことを示しています。その日に、クリスチャンが集まり家に集まり礼拝を守っていたと考えるのが自然です。

週の初めの日、わたしたちがパンを裂くために集まっていると、パウロは翌日出発する予定で人々に話をしたが、その話は夜中まで続いた。わたしたちが集まっていた階上の部屋には、たくさんのともし火がついていた。

使徒行伝20・7-8

「パンを裂く」という表現は、新約聖書の中で所々に出てきますが、主の晩餐を指していると考えられます。使徒パウロと他のクリスチャンの人たちは、週の始めの日に集まり礼拝を奉げ、主の晩餐に与っていたのです。

礼拝の日である主の日に、主の十字架と復活を思い起こす

神は、1週間で天地万物を創造されました。また旧い契約下では、安息日が休息の日としてイスラエルの人々に与えられました。この1週間のサイクルが新しい契約でも使われているのです。主イエス・キリストは、金曜日の午後に十字架にかけられ、予言通りに日曜日に復活されたのです。

クリスチャンは、キリストの十字架による罪の贖いを覚え、主の死からの復活を覚え、天にいらっしゃる神を褒め称え感謝するのです。礼拝ごとに、主を覚え新たな決意で、主のでしとして生きていくのです。この1週間のサイクルはとても重要ではないでしょうか。

1年に2回とか月に1回とか、私たち人間が「主を覚える回数を勝手に決める権威や権利」はないと私は思います。

2世紀~4世紀の教会が示す歴史的な証拠

2~4世紀の文献(英語で出版されている書)を、私が翻訳します。詳しい説明は必要ないと思いますので、箇条書きにします。

週の始めの日、礼拝の日、主の晩餐に関する文献

  • あなたの罪を告白しあなたの捧げものが純粋であるように。主の日に集まり、パンを裂き、感謝を奉げなさい。2世紀 Didache 14:1  
  • もし古い習慣に生きていたあなたが、新しい希望に来たのなら、もはや安息日を守る必要はなく、主の日に従って生きなさい。2世紀 Ignatius – Magnesians 9
  • 私たちは、いつもいっしょにいる。主イエス・キリストと聖霊を通してすべてを造られた創造主をほめたたえる。日曜日と呼ばれる日に、同じ場所で集まりある。私たちは、一般的に日曜日といわれる日、すなわち週の始めの日に集まる。その日、神は暗闇を光に変えた。主イエス・キリストはその日に死から復活された。2世紀 Justin – Apology I, 67:1-3
  • 週の始めの日は、すべての日の始め。しかし、週の日にちを数えると8日目である。2世紀 Justin – Dialogue 41:4
  • わたし(キリスト)は主の日である8日目に来る。2世紀 Epistle of Apostle 18
  • ある人たちは、太陽がクリスチャンの神だと思っている。なぜなら、良く知られているように、私たちは、日曜日を喜びの日としているからだ。3世紀 Tertullian – To the Nations I:13
  • ある人たちは、安息日や他のユダヤ教の慣習を守っていた。しかし、私たちは、主の日に主の復活を覚えるのである。4世紀 Eusebius – Church History III. xxvii. 5
  • 主の晩餐を注意して行いなさい。主イエス・キリストの一つのからだがあり、主の血の一つの杯がある。2世紀 Ignatius – Philadelphiains 4

結論 神の教えに忠実に、律法主義ではなくて・・・

私たち、横田キリストの教会は、どんな小さなことでも神の教えに忠実でありたいと願っています。しかし、私たちが主の晩餐を忠実に守っているから、私たちを正しくする訳ではありません。

他の教派では、毎週主の晩餐に与ることは行われていませんが、私たちに他の人々を裁く権利もありません。律法主義的に主の晩餐に与っていたら、本末転倒です。

キリスト教は、長い年月を経て多くの変化を経験してきました。主の晩餐もその一つかもしれません。私たちは、主に喜ばれる教会でありたいと日々、毎週の礼拝ごとに祈っています。

主イエス・キリストの福音が、全世界の人々に届きますようにお祈り申し上げます。