御元気ですか。
神から離れた人間は、さ迷い人であると数週間前に言いましたが、一見、幸せそうな人でも実は創造主なる神から離れた人間は、本来の人間の姿ではないのです。創造主なる神によって創造された人間には、神によって与えられた目的があるのです。その目的どおりに生きることこそ本来の人間の姿であると説明しました。
しかし、この世の中を見回してみますと、神様から離れてしまっている人が大勢いるのに気づかされます。人生の歯車が狂ってしまった人たちが大勢いるのです。狂って当然です。なぜでしょうか。目的どおりに生きていないからです。このような狂った世の中に生きているわたしたち人間に希望はあるのでしょうか。
夢
「大きくなったら何になりたい?」という質問は子供のころ、わたしが聞いた質問です。つまり将来の夢は何?という質問です。男の子であれば野球の選手やサッカーの選手になりたいと思っている人もいるかもしれません。毎年、100人くらいの人たちがドラフトでプロ野球に入っていきます。たとえドラフトで一位に指名されてもその中で生き残り本当にプロ野球の選手としてやっていけるのはほんの一部なのです。夢は、挫折へと変わっていきます。
あなたの夢は何でしょうか。将来、どんな事をしたいと思いますか。10年後、あなたはどんな事をしているでしょうか。
中国の思想家である魯迅が次のように言っています。「希望とはもともとあるものだとも言えないし、ないものだとも言えない。それは道のようなものである。地上にはもともと道はない。歩く人が多くなればそれが道になるのだ。」
他の人々の成功しているのを見れば、ようし僕も挑戦してみようと気になるんもんです。そのような意味で魯迅は言ったのでしょうか。いずれにせよ、希望とは自分で作っていくものだという意味でしょう。
辞書によれば希望とは、「自分がこうなりたい、人にこうしてもらいたいとよりよい状態を期待して実現を願うこと」と書かれています。ヘレン・ケラーが次のように書いています。「希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ成就するものではない。」確かにそうかもしれません。
しかし、何に希望をおくのでしょうか。幸せになりたいとは誰もが思うでしょう。だから人は・・・したら幸せになるはずと考えます。たとえば、仕事に希望を持つ人、また結婚に希望を持つ人、結婚すれば幸せになれるはずと考えるのです。でも本当にそうかな?自分自身が変わらなければ何にも変わらないのではないでしょうか。この世の中の物に希望をもてば遅かれ早かれ落ち込みます。でも今、現在、落ち込んでない人たちもいるのも事実です。だから人はだまされやすいのです。
さて今日はその夢を追い続ける人の話をしたいと思います。ルカの福音書15章11節―24節まで読んでみましょう。
15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。
15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。
15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。
15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。
15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。
15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』
15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。
15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。
15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。
15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。
