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神の愛とわたしたち罪人

  • 2010年3月 8日(月) 17:21 JST
  • 投稿者:
    masanngk

 こんにちわ。わたしの世代の人は知っている俳優さんが次から次へと亡くなっていきます。つい最近では藤田まことさんが亡くなりました。去年の暮れには森繁久弥さんが亡くなりました。数年前には植木等さんが亡くなりました。その植木等さんは、わたしがまだ小学生の頃に「わかっちゃいるけどやめられない」と歌っていました。歌のタイトルは忘れましたが、そのフレーズだけはよく覚えています。実際、わたしたち人間には「わかっちゃいるけど止められない」ということはないでしょうか。悪いとはわかっていてもついついやってしまうようなことです。ここが人間が人間たるゆえんかもしれません。聖書ではこれを罪の行いと教えています。 

ローマ書7章15節ー25節を読んでみます。

7:15 わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。
7:16 もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。
7:17 そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:18 わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。
7:19 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
7:20 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
7:21 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
7:22 「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、
7:23 わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。
7:24 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。
7:25 わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。

 ローマ書を書いたパウロは、自分をたとえにして人間の罪の奥深さを説明しています。頭では善悪が何であるか知っているのですが、その善を行わないで、やりたくもない悪を行ってしまうのです。自分が何かに操られているように悪を行ってしまうのです。善い行いをしようと思っているのだけれどできないでいる状態ですね。皆さんもこんな自分自身を見たことはありませんか。これはわたしたち人間の罪の呪縛とも言えます。もはや悪を行っているのは自分ではなくて自分の心に住んでいる罪の力なのです。罪の力は悪魔によってつくられてしまいます。こんなわたしたち人間はみじめな存在として生かされているのです。気まじめな人は生きるのが嫌になってしまうのもこんな時かもしれませんね。

このようなわたしたちの状態は罪につながれた奴隷のようなものですね。足に鎖がついていればうまく歩けるはずがありません。悪魔がささやきによってわたしたちは、だまされてしまいます。イエス様を知らなければ、人間は悪魔の言いなりになるしかないと思ってしまうでしょう。そうするともっとその鎖が重たくなってきます。どうにもこうにもやりきれなくなってきます。すべてを投げ出して好き勝手に生きろと悪魔がささやいてきます。わたしたち人間を救ってくださるのは神の愛しかありません。パウロが書いているとおり、わたしたちは罪ゆえに死に定められているのです。自分の力では苦しみから抜け出せない惨めな存在なのです。イエス・キリスト以外に救いの道はないのですね。しかし、ここで一大決心をしなければなりません。何が自分にとって大切なのかを見極めなるのが大切です。
 
マタイ6章25節ー34節

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。
6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。
6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。
6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。
6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。
6:33 何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
6:34 だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
 
人間は衣食住を追い求めてせっせせっせと働いているようです。もちろん衣食住は大切ですね。食べなければやせ細ってしまうでしょう。しかし、本来、衣食住は天にいらっしゃる神が、わたしたちに与えてくださると保障してくださっており、わたしたちはあせってそれを追い求める必要もないのです。決して大金持ちにはなりませんが、でも食に困らない程度に神は十分に与えてくださいます。しかし、条件がありますね。まずは第一に神の御国、つまり神の支配の中に入り、神の義、つまり神の教えを求めて生きていくことです。
 
わたしたち人間はついつい物欲に振り回されてしまいがちです。そうなると、魚にたとえれば、うまく泳げない魚のようでしょうか。本来ならばうまく泳げるはずなのに泳げないのです。なぜでしょうか。バランスが悪いからですね。神は魚がうまく泳げるようにと尾びれ、背びれをつけたのです。そして空気抵抗が少ない形を作ってくれたのですね。神は人間にも同じようにしてくれているのだけど、おろかなわたしたち人間はそれに気づいていないのです。わたしたち人間の役目は本当は、神の御国と教えを求めていればいいのに、他のものを、つまり物欲に駆り立てられて生活を送るようになってしまいました。

でもここで決心をしてください。イエス・キリストについていくという決心です。その決心の仕方を次の聖句から学んでみましょう。ローマ6章1節ー11節を読んでみます。

 
6:1 では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。
6:2 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
6:3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
6:4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
6:5 もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。
6:6 わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。
6:7 死んだ者は、罪から解放されています。
6:8 わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。
6:9 そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。
6:10 キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
6:11 このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きているのだと考えなさい。
 
この聖句は、クリスチャンがバプテスマを受けてどのような状態になったかを説明していますが、同時にバプテスマの意味も説明しています。イエス・キリストについていくと決心してバプテスマを受けて人はクリスチャンになります。その決心はつぎのようなことでまとめられます。

 
クリスチャンは自分自身に対して死ぬとイエス・キリストに約束したのです。つまりイエス・キリストと人生をともにするという約束です。イエス・キリストが十字架上で死んだようにわたしたちも、自分の罪や欲望に対して死ぬと約束したのです。これはわたしたちがイエス・キリストに自分のすべてをお任せするという約束です。罪に対しても死んでもわたしたちは罪人ですから罪を犯します。その時、またイエス・キリストに告白するのです。すべてお任せしてしまうのです。
結果としてわたしたちは、イエス・キリストが死から復活したように、自分の死んで後、神の力によって復活するのです。つまり、新たな人間として生まれるということですね。ここに罪に打ち勝つ秘密があります。罪との戦いはわたしたちがこの世で生きている限り、悪魔がいる限り続きます。罪を犯してもわたしたちは、ノックアウトされません。時にはノックダウンされるときもあるでしょう。
でも立ち上がるのです。自分の二本の足で立ってイエス・キリストによって与えられる力によって歩き続けるのでしょう。
 
一番最初に読んだ聖句を思い出してください。わたしたちは罪に対しては無力な存在です。その無力な存在を力ある人間へ、イエス・キリストは変えてくださるのです。あなたもイエス・キリストをしっかりと信じてこの人生を歩みましょう。

 

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  • 神の愛とわたしたち罪人
  • 投稿者:show on 2010年3月 8日(月) 23:26 JST

>気まじめな人は生きるのが嫌になってしまうのもこんな時かもしれませんね。

罪であることが分かってはいても叫びがある。

それを指摘されると、罪人と烙印を押されたような(罪人としての認定された裁き)気持ちになり、「私は立ち返りきることができなかった者」という気持ちになることがあります。

それを抱いた時、

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

この部分は、「罪人の自分の命に何の価値があろうか。私には食べ物を食べて消費することさえ、罪ではないのか」という部分へと行きます。そしてそれは「イエス様についていこうとすることはイエス様を汚すことにならないだろうか。」という気持ちも出て、そばに行くことさえ悪い気がして距離を置いて歩いて行くことになったりもします。

 

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