お元気ですか。今日も聖書の御言葉、イエス様の御言葉から神様の御心を知ることができることに感謝しております。この時間はクリスチャンの特権でもあります。特権というのは大事にしないといけません。特権をむやみに扱っていると取り上げられてしまうこともあります。運転免許に似たようなところがあります。乱暴な運転や規則を破り続ければ免許停止ということもありますから。特にわたしたちが聖書を読むときはその特権の重要さを理解したいものです。
また祈りも特権ですね。祈りは生きているイエス様との会話です。独り言でも呪文でも暗示でもありません。神様とつながり会話をしているんです。聖書の御言葉と祈りは車の両輪のようなものですね。ないと走れません。
さて今日はヨハネ15章18節―25節を読んでみましょう。
15:18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。
15:19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。
15:20 『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。
15:21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。
15:22 わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。
15:24 だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。
15:25 しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

イエス様の弟子である人々はこの世の人々から嫌われる可能性があるというのですが、ずいぶんと恐ろしい話ですね。そんなに嫌われるようなことはした覚えがないと思うのですが、、、。しかし、ここで覚えておかなきゃいけないのは、最初にイエス様を嫌っているからなんです。世の中の人々はイエス様を嫌うなんて滅相もないと思うでしょう。多くの人たちがクリスチャンでもないのにクリスマスをお祝いしています。一時的にせよ、興味をもっても嫌いになることはないのでは・・・普通考えますね。
でもなぜイエス様はこの世の人々から嫌われると言っているのでしょうか。そのような時がいつかくるのでしょう。その一つの原因は、聖霊なる神様が働いて世の中の罪を暴き出すからです。主イエス様の名によって罪が裁かれる時がきます。いや、もうすでに来ているのではないでしょうか。人間は罪人ですから、自分の間違いを指摘されるのはイヤなものです。必然的に罪を明らかにする人を嫌うのです。でもこれは正当な理由ではありません。イエス様によって間違いを指摘されて感謝すべきなのに、感謝するどころかイエス様を嫌うのです。
この世の中にはイエス様を知らない人たちが大勢います。その人たちはイエス様をまったく知らないのです。イエス様を嫌うことすらわかりません。しかし、この世の人々がイエス様を嫌う時がくるのです。イエス様の教えが彼らの心をえぐるときです。人々の罪を明らかにするときです。世の中の人々が嫌っているとしても、イエス様は世の中の人々を嫌っているのでしょうか。その反対です。世の中の人々を愛して止まないのです。イエス様はその人々を罪から、悪魔の業から救うために、クリスチャンを遣わします。クリスチャンを使うのです。わたしたちクリスチャンもイエス様と同じように罪から悔い改めるように人々に言うでしょう。結果としてクリスチャンが嫌われる時が来るのです。
しかし、この世の罪を明らかにするのは聖霊なる神様のお仕事です。イエス様の聖霊のお仕事なんです。わたしたち、クリスチャンはイエス様の弟子としてイエス様がいうとおりにします。この世にイエス様の御言葉が広がるように祈ります。イエス様の手となり足となって、働きます。伝道します。イエス様の道を教えます。結果的にわたしたちクリスチャンもイエス様につながっていますから嫌われてしまうのですが、これは非常に光栄なことだと思いませんか。イエス様の名ゆえに嫌われることは、光栄なことなんです。
イエス様の教えを人々の伝えるのは、わたしたち一人でやっているのではありません。むしろ、イエス様の聖霊がわたしたちの心に宿り、勇気と愛と力を与えてくださるのです。わたしたち人間の力では何も出来ません。しかし、イエス様はわたしたち人間以上の力を働かせて、御言葉をわたしたち人間を通して伝えるのです。ですから、わたしたちは御言葉を通す管として考えることは出来ないでしょうか。主はいろいろ人間のタイプの人を使って御言葉を伝えます。イエス様の愛と恵によってわたしたちは主の御言葉を語りますが、それでも聞かない人はいます。それでもいいとイエス様はおっしゃっています。嫌われることがあるとおっしゃっているのです。
でも勘違いをしてはいけません。本当に人に不快感を与えるようなことをして嫌われている人たちがいるってことを忘れてはいけませんね。嫌われているから本物のクリスチャンと思われても困るのです。わざわざ嫌われるようなことをすればクリスチャンの証になるのでしょうか。そうではないとわたしは考えています。イエス様が嫌われるからわたしたちも嫌われなければならないと考えるのでしょうか。違うと思います。この世に嫌われるのは、わたしたちがイエス様の弟子であるがゆえに、もたらされる結果に過ぎません。
ではわたしたちはどのようにこの世で生きていけばいいのでしょうか。わたしたちはこの世の中で生きていますが、この世の中の基準から出された者として生かされています。中世のヨーロッパでは、世の中の罪から逃げるために砂漠で住む人たちもいました。これが答えでしょうか。嫌われるからわたしたちは逃げるのでしょうか。次の聖句を読んでみましょう。1コリント5章9節―10節を読みます。
5:9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、
5:10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
使徒パウロが教えているように、わたしたちはこの世の中の人々とお付き合いをしていきます。わたしたちは、この世の中に生きていますが、この世の中には属してはいないのです。この世の中から出された者として、この世の中で生かされているのです。自分の力で生きているのではありません。主によって生かされているのです。この世の中は悪魔が人々を騙している世界です。悪魔の影響力が大きく人々を動かしています。わたしたちは、そのような影響から、主の聖霊によって主に守っていただくのです。でも世の中の人々はクリスチャンとはどんな存在、どんな人たちなんだろうと思うに違いありません。そんな時にも主の御言葉を用意しておきましょう。1ペテロ3章13節ー16節)を読んでみましょう。
3:13 もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。
3:14 しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
3:15 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
3:16 それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい。そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです。
主イエス様は、わたしたちに希望を与えてくださっています。愛を与えてくださっています。それはわたしたちが心に感じるものですね。だから、人は不思議に思うのです。だから、たとえキリスト教ってなんて!と思っていてはいても、クリスチャンの存在は心のどこかの片隅で気になっているんです。こんな時にこそ、わたしたちの希望を語りましょう。
先ほどもお話しましたが、この世の中と決別するのは主の御心ではありません。むしろ、この世の中の人々を愛するのが主の御心なんです。しかし、主の御心はもう一段高いところにあります。その聖句、1ヨハネ2章15節を読んでみましょう。
2:15 世も世にあるものも、愛してはいけません。世を愛する人がいれば、御父への愛はその人の内にありません。
2:16 なぜなら、すべて世にあるもの、肉の欲、目の欲、生活のおごりは、御父から出ないで、世から出るからです。
2:17 世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
この世にあるものを愛してはいけないとはどういうことでしょうか。イエス様は、親兄弟、子供、自分の命よりもわたしを愛さない者は弟子にはふさわしくないとおっしゃっています。つまり、イエス様が一番ということですね。わたしたちは、美味しい食べ物を楽しんではいけないのでしょうか。たまには旅行に行って自然を楽しんではいけないのでしょうか。家族団らんの時間を楽しんではいけないのでしょうか。すべてOKですね。でもイエス様が一番なんです。わたしたちは、この世の中で与えられているものを楽しむことを許されていますが、その楽しみ方もイエス様の基準によってはかられるんです。
この世の基準は何でしょうか。自分の力で生きていると思っています。しかし、クリスチャンは、主によって生かされていると信じているのです。この世の支配は人間の支配です。人間の知恵、人間の力で何でもできると思っている支配です。地球温暖化も人間の力と知恵で何とかなると思っている人間の支配があります。しかし、わたしたちクリスチャンには主イエス様の支配と知恵と力があるのです。主イエス様がすべてを支配しており、いつか再臨の時にはすべての人間たちを裁く時がくるというのをわたしたちは信じているのです。
この世の人々は、人に迷惑をかけなければ何をやってもいいと思っています。自分で働いて得たお金で何をやろうと勝手だと思っています。つまり自分の人生だからだと思っているから。隠れてやって人に見つからなければ何をやってもいいと思っているのです。しかし、クリスチャンは、主イエス様がわたしたちを見ているというのを知っています。一人でいるとは考えてもいません。わたしたちには主イエス様がいつもそばにいて、見守ってくださっていると信じているのです。
だから、わたしたちはこの世の中に生きていてもこの世の中に基準や支配に流されたりはしないのです。たとえ、人々に嫌われたりしても大丈夫。だってイエス様がいっしょだから。今週一週間もイエス様と共に歩いていきましょう。