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ヘブル4章14節ー16節

  • 2010年1月20日(水) 08:23 JST
  • 投稿者:
    masanngk

お元気ですか。今日は暖かい日ですね。日差しも暖かい、風も余りありません。小春日和とはこのような日を言うのかもしれません。今日も神様の御言葉から学べること、心から感謝しております。また神様の愛を受けて、罪から離れ聖なる民として生きていこうと考えております。さて、今日はイエス様がわたしたちと父なる神様の仲介者であるという点に着目してみます。

 ヘブル2章17節―18節、4章14節―16節をお読みします。
 
2:17 それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。
 2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
 
4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。
 4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。
 4:16 だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。

 
聖書はイエス・キリストが父なる神様と人間との唯一の仲介者であると教えています。主イエス様は道であり真理であり命なのです。イエス様を通してでなければ父なる神様と関係をもてないのです。
 
イエス様は人のかたちをとられる前に、父なる神様と共に天にいらした方です。その方がわたしたちと同じように人間となられたのです。主イエス様は三位一体の神様であると同時に人間であるということです。人間であるがゆえに人間の痛み、弱さを知っているのです。同時に神様の御心も知っています。
 
イエス様は、わたしたちの罪がどれほど重いかをご存知でした。わたし自身の罪の重さを日々感じるとき、イエス様の愛の深さをますます感じます。
 
わたしたちが父なる神様と関係を持つために、イエス様は自らを犠牲にして十字架にかけられたのです。わたしたちの罪ゆえの苦しみを祝福に変えるためでした。わたしたち人間は、イエス様を信じて父なる神様に近づくことが出来るのです。主イエス様はわたしたちの弱さを弁明してくださるのです。わたしたちは主イエス様の尊い愛ゆえに恵を受け、また永遠の命を頂けるという祝福を受けます。今週、一週間も主イエス様の恵を受けて過ごしましょう。

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  • ヘブル4章14節ー16節
  • 投稿者:show on 2010年1月20日(水) 13:23 JST

>聖書はイエス・キリストが父なる神様と人間との唯一の仲介者であると教えています。主イエス様は道であり真理であり命なのです。イエス様を通してでなければ父なる神様と関係をもてないのです。

 

「真理であり命である」この部分について先日、ちょうど「命の木」について日記に書いていました。

その日記より

命の木

創世記
3:22 主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
3:23 主なる神は、彼をエデンの園から追い出し、彼に、自分がそこから取られた土を耕させることにされた。

命の木については箴言で示されていますね。

箴言
3:13 いかに幸いなことか/知恵に到達した人、英知を獲得した人は。
3:14 知恵によって得るものは/銀によって得るものにまさり/彼女によって収穫するものは金にまさる。
3:15 真珠よりも貴く/どのような財宝も比べることはできない。
3:16 右の手には長寿を/左の手には富と名誉を持っている。
3:17 彼女の道は喜ばしく/平和のうちにたどって行くことができる。
3:18 彼女をとらえる人には、命の木となり/保つ人は幸いを得る。
3:19 主の知恵によって地の基は据えられ/主の英知によって天は設けられた。


命の木は御言葉でもありますが、御言葉に繋がり、実をならせないと食べるものがありませんね。

「知恵に到達」「英知を獲得」が「命の木」ですから、
知恵に到達するには、まず始めのスタートは「主を畏れる」ことです。

箴言
1:7 主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。

イエス様は御父を愛する事を第一と言われましたが、その入り口は「畏れる」ことから始まります。 「畏れて愛する」というのは矛盾に聞こえるでしょうか?
「畏れる」は「恐がる」ということとちょっと意味が違い、「万能であり、真実であり、逆らいようがない」という事を知ることだと感じます。

主を畏れない者は、「逆らいようが無い」とは思っていないのです。真実よりも自分の口の方が勝っていると思っているのです。

ですから、「主を畏れる」というのは、主の御力、御業、すべてが完全であり、逆らいようがないことを知るということでもあります。

「主を畏れる」ことは、「真実」を受け入れる始めでもあります。
真実は堅く永遠に立ち、偽りは弱い土台の上に立ち消え去るものです。
偽りの上に立つものは消えゆく命。 堅く永遠に立つものに繋がることが永遠の命を得ることでしょう。

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