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ヨハネ15章1節―17節

  • 2010年1月18日(月) 17:05 JST
  • 投稿者:
    masanngk

 横田キリストの教会のメンバーの皆様、お元気ですか。今週もネットを通して聖書の御言葉をいっしょに学べることを心から感謝しています。聖書の御言葉はわたしたちの灯火として輝きわたしたちの心に光を与えて下さいます。

 わたし自身、聖書を毎日読み、神様の愛の深さを感じ、また自分の罪の深さをしり、自分こそ悔い改めなくてはいけないと感じております。今日、読む聖句もわたしたちクリスチャンにとって良い薬になる御言葉です。良く噛みしめて味わいましょう。
 
今日はヨハネ15章1節―17節を読んでみましょう。
 
15:1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
 15:2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
 15:3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
 15:4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
 15:6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。
 15:7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
 15:8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。
 15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。
 15:10 わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。
 15:11 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
 15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
 15:13 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。
 15:14 わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。
 15:15 もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。
 15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。
 15:17 互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」

種まきのたとえという話がマルコの福音書4章に書かれています。そのたとえでは、イエス様は、聖書の御言葉を聞いた後、どのような反応をするか4種類の人がいるというのです。一番目は、ほとんど興味を示さない人たちです。悪魔が御言葉をその人の心から獲ってしまうのです。だから聖書の興味を示さずただの西洋の本、西洋の宗教と思っているような人たちです。二番目は、興味を示してしばらく聖書を読む人です。なかには実際にクリスチャンになる人もいるでしょう。しかし、ちょっと困ったことがあったり、クリスチャンであることに対して友達から冷やかしを受けたりすると、いやになってしまう人たちの事を指します。三番目は、聖書を読んで喜んでクリスチャンになりますが、周りの欲望や思い悩み、普段の生活の方が大事になってしまって、クリスチャンとして過ごしてはいるのですが、実を結ばない人たちです。そして最後に、素直な純粋な信仰を持つ人たちは、イエス様の力によって実を結ぶ人たちです。このようにクリスチャンになると言っても、いろいろな人たちがいます。霊的に成長する人、しない人、それぞれ違います。このたとえは、いつ読んでもわたしにとって良い薬になります。
 
さて、今日はそのクリスチャンの成長について考えてみます。聖書をお持ちの方は今日、読んだ聖句をもう一度見て下さい。いっしょに今日の聖句の意味を確かめてみましょう。1世紀のユダヤでは葡萄が栽培されていました。ほとんどの人が農業に携わっていましたから、種まきのたとえも葡萄の木でイエス様を例えているのも、人々にとってはわかりやすかったのでしょう。
 
15章1節では、イエス様は葡萄の木であると言っています。そして、父なる神様は農夫だと言うのです。農夫という言葉ではあまり強い意味を読み取ることは出来ませんが、神様は葡萄の木の手入れをなさるのです。実を結ばない枝は切って捨てられ火に投げ込まれます。枝はクリスチャンを指しています。イエス様という木の枝として生かされていても実を結ばないものは切って火の中に投げ込まれてしまうのです。何と恐ろしい言葉でしょうか。
 
でも今日読んだイエス様の御言葉には大きな愛が秘められているのです。神様はわたしたちの霊的な命の手入れをしてくださるのです。火の中に投げ入れられるべきものは罪なのです。わたしたちはイエス様の御言葉を聞いて清められるのです。どのようにしてでしょうか。イエス様の御言葉は罪が何かを知らしめます。わたしたちの心に諭しを与えます。わたしたちの過ちを気づかせてくれます。イエス様の御言葉を聞いている時にわたしたちは、悔い改めのチャンスを頂いているのです。清められるチャンスが与えられているのです。つまり、イエス様にあって実を結ぶためのチャンスなんです。そのチャンスをどのように生かすのでしょうか。
 
イエス様に留まるのです。この留まると訳されているギリシャ語の単語ですが、これは続ける、宿る、住むという意味があります。つまりイエス様の御言葉と愛がわたしたちの心に宿っていなければ悔い改めも出来ないのです。悔い改めのチャンスをもらっているのに、悔い改めなかったらどうなるでしょうか。あんまり良くないでしょうね。イエス様はわたしたちを裁くためにいらっしゃらないです。わたしたちを救いためにいらっしゃるのです。だから、わたしたちの答えは信仰による悔い改めなんです。
 
留まるというギリシャ語の意味にはもう一つ大切なニュアンスがあります。それは続けるという意味合いが非常に強いのです。「継続は力なり」という諺があります。イエス様につながるのも、継続性がなければ意味がありません。クリスチャンは一生ものだとわたしは考えています。わたしたちが一時的にクリスチャンとして燃えて、飽きたら止めるということはイエス様の御心の中にはないとわたしは信じています。
 
主いえす様が父の愛の中に生きたように、わたしたちは主イエス様の愛に生きるのです。主イエス様の御言葉を読み続け御言葉によって清められ続けるのです。その結果はどんなでしょうか。天において喜びがあります。父なる神様とイエス様に栄光が輝くのです。さらにわたしたちの心の中に永遠の喜びが宿るのです。何と素晴らしい恵でしょうか。
 
主イエス様に留まっているわたしたちを、主はもはや僕とは呼びません。友人と呼ぶのです。どうしてでしょうか。それはわたしたちが主イエス様の御心を知り実践するからです。主に従う忠実な人間になるからです。主を常にしたい求めるわたしたちは、いつも主によって友人と呼ばれるのです。ここで重要なことは、わたしたちの方で主を友人と気安く呼んでいるのではありません。あくまでも主がわたしたちを友人と呼ぶのです。
 
わたしたちは、自分の意思でクリスチャンになったのでしょうか。どっちとも言えます。神様の導きがなければクリスチャンにはならなかったでしょう。主がわたしたちを選ばれたのです。同時に、わたしたちの方で主イエス様の呼びかけに対して「はい、ついて参ります。」と言ったのも事実でしょう。ここに神様の目に見えない働きがあるのではないでしょうか。
 
冒頭に種まきのたとえを話しました。イエス様の御言葉を聞いてクリスチャンになっても成長しない人がいるのは事実です。喜んでクリスチャンになっても周囲の言葉に騙されてしまう人ですね。嫌がらせや白い目で見られるとイエス様を諦めてしまうような人です。思い煩いや悩みに惑わされて、または自分の欲望が原因でついつい思い悩んでしまって、信仰がふらついてしまっているような人ですね。ついつい人の悪口を言ったり世の中に恨みがましい事を言ったりしてしまいます。わたしにも経験があります。言っている本人は大真面目ですから、なかなか気づきません。そんな時はいったいどうすればいいのでしょうか。まずは御言葉によって清められるために御言葉を読みましょう。悔い改めのチャンスを頂きましょう。そしてさらに原点に戻ることです。つまりイエス様に帰るのです。イエス様に留まるのです。これしか、わたしたちクリスチャンが成長する方法はないとわたしは信じております。

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  • ヨハネ15章1節―17節
  • 投稿者:show on 2010年1月18日(月) 23:55 JST

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。」

「道から外れないように心配しています。」という「愛」がこの部分から感じられますね。

 

>イエス様の御言葉を聞いてクリスチャンになっても成長しない人がいるのは事実です。ついつい人の悪口を言ったり世の中に恨みがましい事を言ったりしてしまいます。

>言っている本人は大真面目ですから、なかなか気づきません。

これらも名を伏せただけの悪口にはならないのでしょうか?

これらの相手のためにただ祈り続けるという難しさを感じています。 祈りが届いていないと思ってしまうと人のほうにこぼしてしまう・・。

主に委ねたはずなのに、やはり待つ事にガマンできなくなって自分の力(口)で直接なんとかしてやろうと考えてしまう。。。。。

私達のできることは福音の宣べ伝えと、祈って待ち望むことというのを学んだはずなのに・・

「力は主にあり」をどうしても忘れてしまいます。

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