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ヨハネ14章15節―31節

  • 2010年1月12日(火) 10:49 JST
  • 投稿者:
    masanngk

イエス・キリストと聖霊

今日は中国の儒教の話から始めたいと思います。儒教には5つの道徳的概念があります。仁、義、礼、智、信です。仁は人を思いやること、義は利欲にとらわれないこと、礼は仁を行動で表すこと、智は学問に励むこと、信は言明をたがえないことです。それぞれ重要な概念です。イエス様の教えと共通点がありますね。しかし、イエス様が教えたこと、なさったことが儒教とまったく同じであったらイエス様がわざわざ天からこの地に降りてくる必要はありませんでした。イエス様が教えたこと、なさったことには明らかに相違点があります。まずはイエス様の十字架での死です。わたしたちの罪のために死なれました。そしてイエス様の死からの復活があります。永遠の命が与えられるという約束があります。

 今日はもう一つ大きな違いについてお話します。ではその聖句を読んでみます。(ヨハネ14章15節―31節)
 
14:15 「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。
 14:16 わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。
 14:17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。
 14:19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。
 14:20 かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
 14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」
 14:22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。
 14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
 14:24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。
 14:25 わたしは、あなたがたといたときに、これらのことを話した。
 14:26 しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
 14:27 わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。
 14:28 『わたしは去って行くが、また、あなたがたのところへ戻って来る』と言ったのをあなたがたは聞いた。わたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるはずだ。父はわたしよりも偉大な方だからである。
 14:29 事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく。
 14:30 もはや、あなたがたと多くを語るまい。世の支配者が来るからである。だが、彼はわたしをどうすることもできない。
 14:31 わたしが父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう。」 

 

イエス様はわたしたちに聖霊なる神様、わたしたちと共にいらっしゃる神様の霊をあたえてくださると言っています。イエス様が天に昇られた後、弟子たちはさ迷い歩く孤児のようだったのでしょうか。いいえ、違います。イエス様は聖霊としてわたしたちの内に宿っているとおっしゃっているのです。ずっと昔のことですが、孤児ハッチというTVマンガがありました。両親から離れてしまった蜂が友達に支えながらその両親を探している話です。もちろん、わたしたちは友達、知り合いによって支えられていますが、孤児ではありません。イエス様の聖霊が宿っているのです。
遊園地で迷子になっている子供を見かけたことはありますか。泣いているばかりでどこにもいけないでいる子供です。きっと近くにいる周りの大人がその子供を迷子センターへ連絡するでしょう。しかし、わたしたちはそのように迷子になる心配もないのです。イエス様の聖霊が宿っているからです。
 
聖霊は、わたしたちに真実、真理を教えてくれます。イエス様が直接、お話してくださるのです。しかし、これには条件がありますね。イエス様の教えに従うことです。従わない人になぜイエス様は語りかけるでしょうか。イエス様を愛する人はイエス様の教えに従うのです。そして、その人にイエス様の聖霊は語りかけるのです。ヨハネ16章5節―15節を読んでみましょう。
 
16:4 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。
 16:5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。
 16:6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
 16:7 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。
 16:8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。
 16:9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、
 16:10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、
 16:11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
 16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。
 16:13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。
 16:14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。
 16:15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」
 
イエス様の聖霊は、この世の中の罪を裁きます。罪を明らかにします。わたしたちの内にやどっている聖霊が罪を明らかにするのです。つまり、自分の罪をも明らかに出来るのです。世の中と言っても他人事としてとらえないで下さい。自分自身の罪をも含んでいるのです。聖霊はわたしたちを導いて下さいますが、自分自身を過信をしてはいけません。聖書はすべての霊を調べなさいと教えています。つまり、霊の中には悪魔によって送られた霊もいるからです。その悪霊は人々の心を騙し惑わします。キリスト教の名を語った偽教師たちによって何人の人々が騙されたでしょうか。一世紀の時代には、異教の宗教からクリスチャンになった人々が大勢いました。その人たちは異教の慣習、信仰をクリスチャンになっても持っていたのです。純粋な信仰でありません。このような異教の宗教と聖書の教えをいっしょに考えている人は今日でも大勢います。そのような人々にイエス様の聖霊は真理を教えるでしょうか。
 
わたしたちは、正直にイエス様の聖霊に答えるべきなのです。イエス様だけが力ある方と信じているでしょうか。悪霊は、今日も存在しています。悪魔の力が人間社会の中でどれほど活躍しているでしょう。だからこそ、わたしたちは、イエス様の聖霊に心から耳を傾ける必要があるのではないでしょうか。
 
聖霊はわたしたちの救いの保証書です。神様の子供としての印なのです。
 
1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。
 1:14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。
 
何か電化製品やコンピューターを買ったと想像してみて下さい。その製品には必ず保証書がついているはずです。1年間保障とか3年間保障とかいう一枚の紙です。お金を払うと5年保障もありますね。しかし、これらの保証書をポイと捨ててしまっては後になって困りますね。故障が起きたときに修理が出来ません。有料修理になってしまいます。でも保証書を大事な宝物として取っておく人はあまりいませんね。
 
この保証書の概念はイエス様の聖霊に当てはまります。せっかくクリスチャンになったのに、イエス様が頂いている保証書、つまりイエス様の聖霊、保証書をむやみに捨ててしまう人がいます。これは大きな損害です。聖書は、わたしたちの内に宿っている聖霊を悲しませてはいけないと教えています。聖霊はどんな時に悲しむかといいますと、わたしたちが悪魔によって騙されて罪を犯してしまうときです。悪魔の霊を聖霊だと勘違いしているときです。わたしたちの内に宿っている聖霊は、わたしたちの宝物です。大事にしたいものです。イエス様の裁きの日までわたしたちの心に大事にしまっておくのです。
 
しかし、電化製品の保証書とはまったく違った点があります。電化製品の保証書は1年とか3年とか期限付きですが、イエス様の聖霊の保証書は永遠のものです。電化製品の保証書はお金を出せば保証が伸びますが、イエス様の保証書にはそんなことはないのです。イエス様の聖霊を大事にするか否かによってわたしたちの救いの保証が違ってきます。実際に、イエス様は再臨してすべての人間を裁く時がきます。その時、わたしたちはイエス様からどんな言葉をいただくのでしょうか。
 
マタイ7章21節―23節とマタイ25章21節を読んでみましょう。
 
7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
 7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
 7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
 
25:21 主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』
 
どちらの言葉をイエス様から聞きたいですか。もちろん「忠実な良いしもべだ。」といってもらいたいです。イエス様はわたしたちに大変素晴らしい贈り物を与えてくださったのです。真理をわたしたちに教えてくださり、またわたしたちを守ってくださる聖霊なる神様です。どうかわたしたちがイエス様の教えに従って歩めますように。

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  • ヨハネ14章15節―31節
  • 投稿者:show on 2010年1月12日(火) 15:04 JST

この世は神様を見ようとしません。

しかし、神様はこの世界(この世)を創られた存在です。

神様は、この世の外側からも内側からもすべてを見ることがおできになります。

私達が、「偶然だ」とか言ってしまう現象も、「あって当たり前のものだ」と思う物も、すべて神様の御業と御業により造られたものです。

私達が、いろいろと体験する事柄もすべては神様が用意されました。 その物、事象、時期、すべてが私達が生まれた時には神様が用意されていたのです。

その用意された道のりは、途中では「何の意味があるのだろう?」という悩みでいっぱいになってしまうものですが、

途中途中の節目で「大変だったけど、あれもいい経験だった。」と感じることがあるでしょう。 途中では辛くて抜け出られないのではないかと感じたりしてしまうことも多いですが。

それは、私達に良い物(私達にすばらしい心と恵み)を与えられるために、すでに神様が用意されていたものなのです。

私達の成長のためのカリキュラム。 それはすべての物(砂粒一つも含めて)と事象(空の雲の形も含めて)と時期をこと細かに神様が用意してくださったものです。 雲が素晴らしい形をしていても、夕日などの時間と、私達がふと空を見上げるといういろいろな要素が合わさらなければそれらを感じることができなかったのは分かると思いますが、神様はそのような景色でさえその人その人の為に時期、時間、場所さえも用意してそれぞれの心に満ち足りた物を感じさせて成長させてくださったりするのです。

この事の細かさと量の多さ、人知を越える用意です。

それが、神様が私達のことをそれだけ思ってくれているという証(あかし)なのです。

その用意されたカリキュラム(道)に気がつかなければ、神様の愛に気がつかないでしょう。

そのカリキュラムは、この世の土台、真理にあります。

私達が「現実」と感じている世界は、「物質だけを見ている」世界であり、「真実」の世界は、これらの神様の御業、御力も含めた視点です。

真実がみえていなければ、それは眠ってみている夢と同様で、不完全なものです。

聖書を読むことにより、その真理が見えてきて、そのすばらしい愛に気がつくのです。

そしてどこに行くのか。 その目的というか本来の役目(ポジション・配置)は「いのち」と呼ばれます。

「生きる」とは、「活きる」ことであり、要所要所のポジションに付けられなければ役目が無く、死んでしまうのです。

(人は、自分の居場所というのが感じられ無いと死の恐怖にとりつかれます。イエス様はその人の弱さを知っておられそれを「住むところ」として示されました。 ヨハネによる福音書14:2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。)

これらは神様が私達のために用意された「愛」によるものです。

その愛が形として私達に与えられました。

イエス様が「道であり、真理であり、いのちである。」

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