祈りの基本

今日は祈りについて考えてみましょう。祈りはどんな宗教にもあるものですね。でも創造主なる神が私たちに求めている祈り方があるので、それを今日はいっしょに学んでみましょう。では聖句を読んでみましょう。

また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。わたしたちに必要な糧を今日与えてください。わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』(マタイ6章7節ー13節)

第一の原則は、祈りはおまじないの様ではないということです。決まりきった呪文を唱えるようなものでもありません。また仏教のように意味のわからない言葉を唱えるものでもないのです。祈りは創造主なる神に私たちが心から語りかける会話です。ですから、私たちが話す言葉で神に話します。神に言語の壁などありませんから、神は私たちの感謝の気持ちと願いを聞いてくださいます。キリスト教のある特定のグループは、主の祈りと呼ばれる上記の祈りを暗記して何度も繰り返し唱えるように教えていますが、これは本末転倒です。主の祈りは、念仏のように何度も繰り返してはいけません。それはキリストご自身が言っています。むしろ祈りというものは、私たちの心と神の心の会話なのです。会話には当然、意思の疎通があります。コミュニケーションがあるのです。同じの言葉の繰り返し、くどくど言っていても、神に私たちの祈りは届きません。

さて、その祈りの内容ですが、基本的に7つの項目があります。この項目に沿って祈ることは、もっとも大切な基本原則と言えます。では一つ一つの項目について考えてみましょう。

1番目は、創造主なる神を、天にいらっしゃる私たちの父よ、と呼びかけます。私の父よ、ではなく、私たちの父よ、と呼びかけます。これには、深い意味があります。天にいらっしゃる神は、地球上にいるすべてのクリスチャンの父なる神です。他のクリスチャンも祈っているでしょう。だから私たちは共同体として祈るのです。神を父と呼ぶことにも意味があります。主キリストの名によってクリスチャンは神の子供として認められました。その結果、私たちは神を天にいらっしゃるお父様とも呼べるのです。または、天にいらっしゃる主イエス・キリストの父なる神よ、と呼びかけてもいいでしょう。

2番目は、神の御名が崇められるように祈ります。創造主なる神を褒め称え、神の力と知恵と愛に心から感謝しましょう。

3番目は、神の御国が来るように祈ります。神の御国とは、神の支配を現しており、神の支配があるように、と祈ります。この地では人間がすべてを支配しているように思えますが、クリスチャンはまったく違った見方をします。神の支配が自分の生活にあるように、と祈るのです。

4番目は、神の御心が天で行われるように、この地でも行われるように、と祈ります。つまり自分自身が神の御心に従って生きていくことを心に刻み、神の力をください、と神にお願いするのです。自分の思いと考えや希望ではなくて、全能の神の御心が行われるように祈ります。

5番目は、私たちに今日生きる糧を与えてください、と祈ります。今日、与えてくださいと祈ることから、祈りは日々行われるべきものだと理解できるでしょう。自分が住んでいる場所、仕事、食べ物、すべての恵みが神から頂いていることを再認識して、神に生きるための糧を与えてくださいと祈ります。

6番目は、私たちの負い目、つまり神の御心に反している罪を赦してください、と祈ります。この祈りには、人間関係の重要な教えが含まれています。私たちが他の人の罪を赦すように、私たちの罪を赦してくださいと祈るのです。つまり、私たちの人間関係が、そのまま私たちと神との関係に反映するということです。私たちが心から他の人の罪を赦さなければ、神も私たちの罪を赦してはくれないのです。

7番目は、私たちを悪魔の誘惑から守ってくださいと祈ります。私たちが住んでいる世の中は、悪魔の影響で満たされています。神から離れさせる多くの誘惑があるのです。しかし、神はそんな弱い私たちを悪から守ってくださいます。だから私たちは、神に委ねて悪に打ち勝てる神の力をくださいと祈るのです。

以上、祈りについて考えてみました。祈りの順番は大切です。まず最初に神を褒め称えることから始まります。ご利益宗教では、「これください、あれください」の祈りをします。しかし、本物のクリスチャンは神を褒め称えることからすべての祈りが始まります。自分が至らないところ、不信仰なところ、自分の罪も告白しましょう。そして自分が必要だと思っている物事、困っている物事、すべて包み隠さず神に言いましょう。神は私たちが日々神に祈ることを望んでおられます。私たちを求めています。私たちは、素直に創造主なる神にキリストの名によって祈りましょう。神に祈ることによって、人生は変わります。劇的に変化をします。日々成長していきます。神は憐れみ深いお方です。あなたをいつも見ているのです。あなたの祈りをいつも聞いています。だから日々、神に向かって祈りの声をあげましょう。

信仰の出発点

クリスチャンになる時の信仰の出発点とは何でしょうか。

聖書は次のように言っています。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。」(マタイ5章3節)信仰の出発点は、心の貧しい人になることです。ここで2つの質問について考えてみましょう。第一に、心の貧しい人はどんな人でしょうか?第二に、心の貧しい人になることが、なぜ信仰の出発点になるのでしょうか?

心が貧しいとは、心が満たされていない状態をさします。これは「心が卑しい状態」とは違います。心が卑しい人は自己中心的で陰口言ったり、責任転嫁したり、自己嫌悪を持っているような人です。一方、「心が貧しい人」は心に何もないのです。心が満たされていない状態です。自分には誇れる物が何もない人です。心が欠乏して、人生の意味を求めているんですが、心が満たされていない状態です。

人間は物質的に満たされれば心も満たされると考えがちですが、そんなことはないのです。物質的に豊かであっても何か空しいことはないでしょうか。実際に心の空しさゆえに、多くの人々はオウム真理教のような新興宗教に入り、犯罪を犯すまで至っているのです。

その空しさを正しい方向、創造主なる神に向ける必要があるのです。しかし、人間はなぜ空しいのかわからないのです。気晴らしに趣味に没頭したりします。それでも満たされない状態が続きます。ちょうど、檻の中にいるハムスターのようにグルグル同じ所をまわっているような状態です。私たちは、その空しさを創造主なる神に向けるのです。創造主なる神に面と向かい合う必要があります。

神が求める人間の心とは何でしょうか。「私の心を満たしてください」と祈る信仰です。

「自分には誇れるものは何もない。あるのは罪だけです」と祈る信仰です。「私は苦しんでいます。心の中には空しさだけがあり、いつも私は神であるあなたを慕い求めています」と祈る信仰です。

聖書には次のように書かれています。「すべてに耳を傾けて得た結論。「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、人間のすべて。 神は、善をも悪をも/一切の業を、隠れたこともすべて/裁きの座に引き出されるであろう。」

人間の本分は創造主なる神を信じて生きていくことです。このような信仰があれば私たちは神に次のように告白するのです。自分には善がないことを認め、善を行う力もないことを認めるのです。実際、人間の善は、自分勝手な、自分の都合に合わせた中途半端な行いです。ですから「罪人をあわれんでください」と祈ります。

信仰の出発点は何でしょうか。神の憐れみを求める心です。心から神を愛して、神の正義を求める心です。

ローマ7章18節ー25節を読んでみましょう。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。 わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。 もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。 それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。・・・わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」

この聖句が言っているように、自分には良い所が何もないと認め、善い行いも自分の力でできないと認めるのです。だから私たちは神の憐れみを求めます。

最初の信仰の一歩は自分が踏み出します。そしてイエス・キリストによって新しい人間にされます。心が満たされていない状態から、神の憐れみと愛によって満たされる状態へ変えられます。神の憐れみと愛を受けて、神の御国に入って神の祝福を受けます。

心が貧しい状態は、クリスチャンの出発点であり終着点です。この信仰を失って裁きの日に神の御国にはいれません。私たちは、いつも心の貧しい者であるべきです。いつも神の憐れみと愛と力を求めて、生きていきます。日々の生活の中で、心砕けて神と向き合いながら生きていくのです。これが私たちの信仰生活の原点です。神があなたを正しい方向へと導いてくださいますように。ではさようなら。