人間の罪が支配している世界

私が子供の頃、宇宙人のことがよく話題に上っていました。火星にはタコのような生物がいると想像されていました。もし宇宙人が、地球の人間社会の現状を説明したらどんなふうに説明するでしょうか。人類の歴史が始まってから科学は進歩しましたが、あまり変わっていないことがあります。それは人間の罪です。そこで今日は、2000年前に書かれた新約聖書の中から、ローマの手紙1章18節―31節から読んで、人間の罪についていっしょに考えてみましょう。

「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。なぜなら、神について知りうる事柄は、彼らにも明らかだからです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもせず、かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。自分では知恵があると吹聴しながら愚かになり、滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたのです。そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました。神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んでこれに仕えたのです。造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン。それで、神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました。女は自然の関係を自然にもとるものに変え、同じく男も、女との自然の関係を捨てて、互いに情欲を燃やし、男どうしで恥ずべきことを行い、その迷った行いの当然の報いを身に受けています。彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。彼らは、このようなことを行う者が死に値するという神の定めを知っていながら、自分でそれを行うだけではなく、他人の同じ行為をも是認しています。」

罪とは、一体何でしょうか。一言でいえば、私たちの創造主なる神から離れて自分の人生を自分勝手に歩む態度、考え、言動を指します。人間はこの罪をありとあらゆる場所と状況で犯し続けるのです。今読んだ聖句は、21世紀の現代社会、混迷している社会を説明しているように思われる方もいるかもしれませんが、実のところ人間社会は人類の歴史が始まって以来、あまり変わっていないのです。

この聖句は、私たちがもっている3つの関係が、人間の罪によって破壊されてしまったと述べています。第一に、私たちと創造主なる神との関係が壊れてしまったのです。人間は、天地万物を創造された神を崇めず、人間の手で造られた動植物や人間の像を拝むようになってしまったのです。よく考えてみると、これぐらい不合理なことはないでしょう。なぜ石や木に向かって拝むのでしょうか。世界遺産になった富士山を拝んで、なぜ富士山を造ってくれた創造主なる神を褒め称え礼拝しないのでしょうか。人間は本来、神との関係を生まれた時から持っているのです。それなのに人間は大きな間違いを犯して、世界万国共通ですが、偶像を造っては拝んでいるのです。目に見えない神の存在は、自然を見れば明らかです。大自然の中で大宇宙の中で私たちが生かされていることを考えれば、神の知恵や力は明らかなのに霊的な目が曇ってしまって、人間は神の栄光を物質的な栄光に変えてしまったのです。

第二に、人間は自分が誰なのか、どこから来てどこへ向かおうとしているのか、分からなくてなってしまいました。つまり自分自身との関係が壊れてしまったということです。先ほど読んだ聖句には、同性愛について書かれていましたが、同性愛は今に始まったことではありません。古代も古代、人類が始まって以来存在するのです。1週間くらい前に、芸能人の女性カップルが結婚式を挙げたという記事を読みました。「いつか子供を養子縁組にして子供を育てたい」と言っているのを聞きました。どのような医学的な治療を施しても、この女性たち2人が性的肉体的関係からは子供は生まれてきません。彼らは自分たちが女性であることを忘れてしまったのです。自分との関係を見失ってしまったのです。

第三に、人間は隣人との関係、つまり自分以外の人々との関係を壊してしまいました。人間をまるで石ころのように扱い、他の人の心や体を傷つけても平然としていられるようになってしまいました。戦争があちこちで起きている世界で私たちは生きていますが、実は小さな戦争は私たちが住んでいる日本で起こっているのです。ご存知のように、毎日のように犯罪が起きて、不幸な事件が後を絶ちません。

このように私たちが生きている社会は、人間の罪によって支配されているのです。昨今、命の大切さが叫ばれていますが、命と命の使い方を比べてどちらが大切でしょうか。私たちが神から頂いている命をどのように使うのか、それが問われているのです。包丁は人を殺すためにあるのではなくて、肉や野菜をきったりするために造られたのです。野球のバットは人を殴るために造られたのではなくて、ボールを打つために造られたのです。私たちの命も同じです。命を神の御心のままに使うことこそ、一番大切なことなのです。命ももちろん大切ですが、その命を悪用してしまったら本末転倒です。命を正しく使ってこそ命は生かされるのです。どうかあなたが創造主なる神を知ることができるように、お祈りします。ではさようなら、また来週。

唯一の神を信じる

日本にはありとあらゆる場所でお祭りがあります。そのお祭りのいわれを知っている人はあまりいないようです。おそらくお祭りの99%くらいが、神社に関係するお祭り、あるいは「何とかの神様」にまつわるお祭りではないでしょうか。しかし、それがわかったところで、何をなぜどのようにやるように決まったのかは、はっきりしたところは分からないのではないでしょうか。また、日本にはお祭りと同じくらいの数の神々がいるように思えます。現在でも新しい神様は人間によって作られているんです。1998年に、新しい神社が作られました。その名も貧乏神神社です。この神社は、桜井鉄扇という方が「自分には貧乏神が取り付いている」と考えて、長野県飯田市に1998年に建立したそうです。参拝の仕方は、貧乏神を打ち負かすために、丸太を三回たたく、別の丸太を三回蹴る、そして最後に豆をまくそうです。実はこの参拝方法も彼が決めたそうです。宗教とは所詮、人間が作るものです。日本の神社の中で、お祭りの中で、何をどのようにやるように決まったのかを、わかるのはおそらく貧乏神神社くらいでしょう。

しかし、キリスト教はまったく違います。キリスト教は、創造主なる神が人間に定めた教えですから、単なる宗教とは違います。人間が作る宗教が多くの違った神々を信じるのに対して、私たちは唯一の神を礼拝して敬うのです。人間の宗教では、人間自ら作ったもの、つまり偶像を神としておがんでいます。偶像は町のあちこちに見られます。私の近所の人は狐を奉る神社を家の庭に建てています。また神社仏閣の中に入ると、ありとあらゆる物が拝む対象になるのがわかります。その数を一つ一つ数えていったら、日本の人口と同じくらいになるかもしれません。しかし、私たちは、創造主なる唯一の神をキリストの名によって褒め称え、神の力と知恵と愛に感謝するのです。人間の宗教では、家内安全の神がいたり、学問の神がいたり、安産の神がいたり、何かに特化していない何でもありの神もいるようです。神々がどのようなご利益を与えるように出来るのかも、所詮は人間が決めることです。しかし、すべてを支配している創造主なる神は、そのように人間の知恵で生み出された神ではありません。

では、私たちが信じている神はどんな方でしょうか。もう少し詳しく考えてみましょう。まず第一に、私たちが信じている神は、天地万物を創造された全能の神だということです。すべての天地万物は神によって創造されました。宇宙、太陽、月、星、動植物、人間、すべて自然にあるものは、神の知恵と力によって創造されたのです。神は太陽を昇らせきれいな空気を私たちに与え、すべてを支配しておられるのです。その神の創造の中で、私たち人間は他の動植物とは区別されて、神に似せられた者として創造されました。本来、私たち人間は、生まれた時から神との関係を持っているわけですから、創造主なる神を真実の神として崇めるべきです。

第二に、神は愛に満たされたお方です。神は私たちの幸せを願い、いつも私たちを愛しているのです。この愛は永遠の愛です。

第三に、神は聖なる方です。神はすべてを超越した方です。神は天地万物の初めを告げ、終わりも告げるのです。他の霊的な力は確かにありますが、そのどれをも超えている方、それが聖なる神なのです。聖なる神はすべてを超越していますから、間違いや過ちなどはありません。

第四に、神は義なる方です。神は人間にいつも正しいことを求めます。人間社会の中で正義が行われることを望んでおられます。同時に、善悪に対しては神自らが裁きを下されます。悪とは神の御心に反している人間の心、態度、言動です。その悪に対して義なる神は裁きを下します。私たち人間は、良い面もありますが邪悪な自分勝手な性質を持っています。本来、私たちは地獄に落とされてもおかしくない存在なのです。

人類の歴史が始まって以来、私たち人間は、創造主なる神から離れて生きるようになりました。私たち日本人は神を神として崇めず神社仏閣にある偶像を拝むようになってしまったのです。神の御心に反して、自己中心的に考えて自分が正しいと思うようになってしまいました。言うまでもなく、この考えが人間社会の争いごとの大元ですね。私たち人間は他の人と争い、精神的に肉体的に傷つけることも平気でするようになってしまうのです。これは社会の一部の人たちがやっていることではありません。知らず知らず、私たちは無意識に隣人に対して、悪いことを考えたり行っているのです。しかし、この悪は他の人を苦しめるばかりでなく自分自身を苦しめるようになってしまいます。悪を行えば良心の呵責があります。これも実は神が私たちに与えている良心があるからです。

しかし、聖なる愛なる神は、私たち人間が地獄に落ちて滅びるのを望んではいません。そこで私たちに悔い改めのチャンスを与えるために一人子であるイエス・キリストを地上に送られたのです。この方を信じることが悔い改めの道であり、この方を通して神との関係が修復されるのです。キリストは、私たち人間が本来の人間の姿を取り戻すために生き方を教えてくださいます。イエス・キリストを私たちが知る時、神を知るようになるのです。キリストの教えを受け入れてくださいますように、心からお勧めします。ではさようなら、また来週。

自分に幸運を招くためには?

数年前に「いいことを考えるといいことが起きる」という題名の本を新聞広告で見た。この考え方は、今に始まった考えではない。要するに物事を肯定的に考えなさいと奨励している。この教えには真理があるだろう。人間が長い間もがき苦しみ考えて行き着くところの真理は、すでに聖書に書かれている。しかし、その視点は神の聖なる教えにある。聖書には「すべて真実なこと、すべて尊ぶべきこと、すべて正しいこと、すべて純真なこと、すべて愛すべきこと、すべて誉あること、また徳といわれるもの、称賛に値するものがあれば、それらのものを心にとめなさい」と書かれている。罪悪に満たされた世の中は邪悪の世界と言ってもいいかもしれない。そのような世の中で悪に惑わされ邪悪な心を持っていれば、逆に邪悪な災いが自分に降りかかる。だからこそ、私たち人間は悪から(サタンの策略)から逃れ、神の教えを求める必要があると私は思う。

同じような内容だが、つい最近も「自分に幸運を招くためには?」といった内容の本を新聞広告で見かけた。幸せになれる方程式などあるのだろうか。そのような本に真理は書かれているのだろうか。ここにキリストが教えている幸せの方程式がある。マタイ5章3節ー10節を読んでみよう。

「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

この聖句は、人がどのような態度、心をもてば良いのか教えている。最初と最後の人の祝福は天の国である。最初の心の持ち方は幸せになるための第一歩といえるだろう。幸せといっても自分で勝ち取るのではない。幸せは神が与えてくださる。だからいつも私たちの目は神の方に向いているべきだ。

では実際、心の貧しい人とはどんな人を指しているのだろうか。心の貧しい人は、逆をいえば心が満たされていないと自分で自覚している人である。この言葉は「心が卑しい」とはまったく違う。心が貧しい人の心は神の方に向いている。神の御前では自分には誇れるものなど一つもないし、むしろ神の教えで満たされたいと渇望している。一方、心の卑しい人の心は自分自身に向いている。自分自身を何とか人よりも高めたいと、他の人を陥れようと画策したり自分の過ちを隠すために嘘を平気でつく。誰も心の卑しい人にはなりたくないが、実際に自分が嫌っているような心の卑しい人になってしまうのが、人間が罪人である確固たる証拠だと私には思える。

だから私たちの心は神に向くべきなのだ。自分の心が神の憐れみなしでは何もないと認める心砕かれた魂にはプライドなどない。虚栄心もない。自己顕示欲や見栄もない。自分に重荷をおいてプレッシャーかける必要もないのだ。自分の弱さをはっきり言ってもちっとも恥ずかしいとは思わない。なぜだろうか。神の憐れみがカバーしてくれるからだ。キリストを通して神の愛を経験することはこの世で一番大切なことだと私は信じている。心よりお勧めします。

クリスチャンになっていなかったら

もしクリスチャンになっていなかったら、どんな人生をおくっていただろうか。想像するだけでも恐ろしい。ろくな事はやっていなかっただろう。これは間違いない。警察のお世話になって刑務所が自分の住まいになっていたかもしれない。あるいは酒でも飲んでもどこかで野垂れ死にしていたと思う。自分で招いた失敗は数知れない。墓穴を掘って自分で落ちていくような奈落の底の人生を歩んできた。失敗を重ねて自暴自棄になっていった。いつも世の中を斜めに見ていたが、それでもいつも野望は持っていたのだ。大きな夢をもっていた。「よくあるタイプだな、この人間は」と我ながら思う。昔の自分を見ているような人を良く見かける。非常に謙虚にふるまってはいるが、見栄っ張りで自己顕示欲が強くて実は自慢話がしたくて仕方ないタイプ、これがまさに私だったのだ。しかし、そんな見栄っ張りに見られたくないから自慢話などはしないのだ。こんな人生だから空しくて空しくて泣きたくなったが、でも誰に泣きついていいか分からなかった。多くの人々が親切に声をかけてくださりアドバイスをくれた。しかし、その人たちの親切に甘える気にはなれなかった。なぜだろうか。イマイチ、自分の頭にはピンと来なかったのだろう。自分自身で抱え込んでしまった苦労を通して本来ならば、「人生とは何か」をもっと早く気付くべきだった。そんな時にも実はキリストは私をじっと見ていたのだ。

人生とは不思議なものだ。人との出会いで人生は変わる。人生のすべてが変わるのだ。考え方、態度、行動、心、感情、人生のすべての要素が日々の生活の中で変わっていった。とは言ってもただ単なる人間との出会いを指しているのではない。ただの人間はどこかで期待はずれな部分が必ずある。どんな人間にも言動には矛盾があったりしてがっかりさせられるのだ。完全な人などいないのだから、そんな期待をかけるのがそもそもおかしいのかもしれない。

しかし、キリストは違っていた。キリストは私に人生の意味、人生の目的を与えてくれた。最初の出会いは、言葉では説明できないほど衝撃的だったのを覚えている。普通の人間が与える生半可な親切とはまったく違う、言いようもない衝撃だった。ある人は「神の愛」という一言で片づけてしまうかもしれない。確かに間違いなく神の愛をキリストは私に語ってくれた。私がキリストの懐に飛び込んで行ってもしっかりと受けて止めてくれる優しい愛だった。しかし同時にその愛はとてつもなく厳しい愛だった。これがとっても不思議・・・私の国語力では説明のしようがない。小説家になれるほどの文章力があればかけるのだが、、、、。

キリストの言葉、教えを実践してみると、「なるほどなるほど」と思える事が次から次へと出てくる。肩の荷が軽くなるという表現があるが、まさに人生の重荷が徐々になくなっていく感じだった。これも不思議な現象だ。人それぞれ人生の歩みは違うかもしれないが、人生の重荷は実は似たり寄ったりではないかと私は思う。このブログを読んでキリストについて知りたいと思ってもらえたらこの上なく、私は幸せ者だと思う。ではまたさようなら。