神の愛を体験しましょう

私たち人間はどのように愛を感じることが出来るのでしょうか。赤ちゃんとして生まれて、最初に私たちは親の愛を感じます。必要な時に食事を与えてくれてオムツを替えてもらったりして感じていくのでしょう。そのうちに言葉が分かってくると、親の笑顔や言葉によってもっと愛を感じるようになります。

では神の愛を私たちはどのように感じるのでしょうか。神の愛は、私たちが毎日吸っている空気のようなものです。朝起きて空気を吸ってる時に、今日も空気があったと感謝する人は少ないですね。人間は自分勝手ですから、神の愛を空気のように扱ってしまうのです。あって当たり前だと思ってしまうのです。本来、人間は神の愛を感じるように、神は私たちを創造してくださったのです。ところが、人間の自己中心的な罪は、人間を神から離れさせてしまい、私たちを創造してくださった神の愛さえも感じなくさせてしまったのです。

神の愛を感じるために、私たちは新しく生まれなければなりません。再生する必要があるんです。ちょうど車のエンジンが故障してしまって、エンジンのすべてを取り替えるようなものです。一時的な修理では治らない状態です。ですから全部変えるのです。イエス・キリストは、私たちの心を修理してくださいます。自己中心で壊れてしまった心を修理してくださるのです。神の愛は、イエス・キリストの言葉に表れています。私たちがイエスの言葉を聴くと、私たちの心に神の愛が届くのです。

6:25 「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。 6:26 空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。 6:27 あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。 6:28 なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。 6:29 しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。 6:30 今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。 6:31 だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。 6:32 それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。(マタイ6章25節ー32節)

私たちの神は、私たちの人生を支えてくださっています。誰も自分ひとりの力で生きているのでありません。親や友達の助けがあって生きているのですが、真実はもう少し深いのです。創造主なる神に支えられて私たちは、生かされているのです。私たちの神は、地球温暖化が進んでいるこの世界においても、私たちにきれいな空気を与え恵みの雨を与えてくださいます。

さらに大事なことは、愛なる神は、私たちに必要なものをご存知であるということ。私たちは真実の神を信じて、信頼していくこと、この生き方が人間本来の姿と私は信じています。真実の神は、私たちが神に立ち返り、命の源は神にあるということに気づくように求めています。神は私たちを探して求めています。人生をやり直そうと考えている人、真理を探して求めている人を探しています。どうぞ、真実の神を信じて、真実の愛を感じてください。イエス・キリストは今あなたに語りかけています。イエス・キリストの言葉から真実の愛を感じてください。心からお勧めします。

招待状

ある日、旧い友人から結婚式の招待状が来ました。何年も会っていなかった友人からの招待状にビックリしました。それもその招待状はアメリカから来たのです。その時、私はどうしたでしょうか。当時、私はちょうど仕事を始めたところで、2人の幼い子供の世話をしながら毎日、必死にやっていました。財政的に苦しかったのも事実です。アメリカに行くための旅費を工面できませんでした。今回は結婚式にいけないことを丁寧に説明して、お断りしました。

私たちは、長い人生の中でいろいろな招待状を頂きます。レストランの無料招待券であったりしたらいいですね。結婚式には招待状が付き物ですが、お葬式の知らせも実は招待状が含まれているのかもしれません。その中で、私たちは、招待を受けるのか受けないのか、行くのか行かないかを決めます。いろいろな判断基準があるでしょう。ではイエス・キリストの招待状はどうでしょうか。

「 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

この招待状は、今、あなたの元に届いています。最近はいろいろな詐欺事件が多いので気をつけなければならないでしょう。見知らぬ人から招待状から来たら、まずは疑って当然です。但し、あなたの周りのお友達が招待状に応えていたらどうでしょうか。その人から情報を集めるのも一つの方法です。確かなものかを聞いてみましょう。

このホームページからこのメッセージを聴いている方の中には、私と一度も会ったことがない方が大勢いるかと思います。私がどんな人間か、どんな事をやっているのか、まったく知らないでしょう。それでも敢えて、皆様に心からお勧めしたいのです。イエス・キリストは嘘偽りを言っていません。本当の本物です。もしイエス・キリストが真実を語っていなかったら、私たちはまったく無視すべきです。なぜでしょうか。キリストは自分が創造主なる神から遣わされた神の子であると言っているからです。これが嘘であれば、キリストは人類始まって以来の大嘘つきになります。どんなに良い事を言っている人でも嘘をつく人は、私たちをだまそうとしているからです。もし信じたら、最終的にだまされるからです。そんな人を信じる必要はありません。

しかし、もしキリストが真実を言っているとしたらどうなりますか。これは大変なことになります。あなたの人生にとって大変なことになります。キリストは、あなたを創造された方です。あなたという人間を生まれた時からずっと知っている方です。あなたの髪の毛の本数さえも知っているのです。あなたの悲しみやつらいこと、いろいろな困難もすべてご存知です。キリストはあなたの人生を助けてくださいます。キリストをあなたが心から信じて委ねる時に、あなたの心に変化が起きます。あなたの重荷をおろしてみましょう。肩の力を抜いてキリストを信頼すると、考え方が変わってきます。人生観も変わります。世界中の重荷を自分が背負っているように感じていたかもしれません。そんな方でも、キリストは助けることが出来るのです。

実は、私もそんな重荷を背負って生きていた人間です。人生の歯車が狂ってどうすることも出来ない時でした。キリストを信じたのです。この方を信じて、人生をもう一度やり直そうと考えたのです。すべての過去をすてて一から出直そうと心に決めて、自分の人生をキリストにかけてみました。何と素晴らしいことがおきたでしょうか。生まれ変わることが出来たのです。

神はあなたを愛しておられます。あなたをいつも見つめています。その愛があなたに届きますように、心からお祈りします。ではさようなら、またネットでお会いしましょう。

人気ロックグループの歌手や芸能人が麻薬を所持していた、あるいは麻薬中毒であったというニュースを時々耳にします。麻薬、お酒、タバコ、何にせよ、中毒とは、そのものを吸っていないと飲んでいないと、落ち着かない、心が休まらない状態になってしまうのでしょう。中毒とは分かっていてもやめられないのです。奴隷状態とも言えます。これは非常に極端な例として考えられますが、私たちも何かにはまって止められないってことはないでしょうか。欲望の虜になっていることはないでしょうか。たとえば、お金がすべてと思っている人は、お金の話になると目の色が変わり急に積極的になってくることもあるものです。あるいは、子供を有名大学に行かせることが自分の幸せと考えているお父さん、お母さんにとっては、子供の成功が自分の成功にもなるのです。人間、何に軸足を置いているかによって、ずいぶん見方が変わるものです。イエス・キリストは次のように言っています。

イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。(ヨハネ8章31節―36節)

キリストに軸足を置いている人は、物事の見方が違います。日々、私たちの生活にはやらなければならないことがあります。細かいことですが、ゴミだし、食事を用意したり、洗濯をしたり、子供の世話をしたり、そして仕事です。しかし、どれもこれも生活の中心ではないのです。仕事の虜になっている人は、仕事がすべてです。仕事によって振り回されている状態です。仕事がダメなら自分の人生もダメです。子供に軸足を置いている人は、子供の幸せが自分の幸せです。子供が楽しくないと自分も楽しくない状態になってしまいます。このような生活って、他の物や人に振り回されているのではないでしょうか。奴隷状態ともいえます。しかし、キリストに軸足を置いている人は、何にとらわれることはありません。本当に自由なのです。自分が何のために生まれてきて、なぜこの地球上で存在しているか、キリストから教えていただけるのです。

しかし、クリスチャンであっても罪につまずくことはあります。人生の思い煩いや悩みが心から離れない時があるのです。そんな時、私たちは心身ともに疲れてしまうのです。罪に支配されている奴隷状態とは、罪の鎖につながれている状態です。たとえば、ある事について悩んでいたとしましょう。その考えや思いが頭から離れない状態、悩みという鎖につながれている状態です。そんな時、私たちはキリストの言葉に従うと肩の荷が下りるようになります。真理を知り自由になれるのです。また、私たちにイエス・キリストは次のように言っています。

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11章28節―30節)

日々の生活の中で人生の重荷を私たちは負います。実は、自分自身で負ってしまう場合がほとんどです。自分自身で疲れるようなことを考え、やってしまうのです。たとえば、人は怒りを覚える時に平常心の時よりも数十倍のエネルギーを使います。悩んでいる時も同様です。あるいは人間関係で神経をすり減らしている時も、その疲れは肉体的にも精神的にもずっしり重くのしかかってきます。こんな時には薬を飲んでも効きません。むしろキリストの下に行って、キリストから人生の生き方について学ぶのです。あなたの人生に安らぎと平安が与えられます。キリストは、偉そうに私たちに「これやりなさい、あれやりなさい」と言ったりしません。むしろ、私たちに優しい言葉をかけてくださり、やさしく諭してくださるのです。この方から人生の生き方を学び、真理を私たちが知る時、心に安らぎが与えられます。これは本当の話です。嘘偽りではありません。キリストの招きに応えてみましょう。心からお勧めいたします。ではさようなら、またお会いしましょう。

病気の見分け方

日本のクリスチャンの人口は、すべての教派を合わせても全人口の1%くらいといわれています。韓国では50%かそれ以上とも言われています。中国でさえ日本よりも多いと聞きます。おそらく他の東南アジアの国々のクリスチャンの人口は、明らかに日本より多いと思われます。なぜ日本にはクリスチャンが少ないのだろうかと考える時、私はイエス・キリストの次の言葉を思い出します。

イエスは言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

日本人は平和ボケしているとよく言われます。このような平和国家では心底、宗教を必要と考えている人は少ないのでしょう。ある一部の人々だけが世の中に対して空しさを感じてオウム真理教のような新興宗教に入信したりする程度です。結果的には恐ろしい悲劇を生み出しました。ですから、余計に宗教に対する嫌悪感も強くなるのではないでしょうか。

キリストは丈夫で健康な人ではなく病人を招くために来たのです。病人は自分が病気を患っていると思わなければ病院には行きません。病気があると気づいて初めて医者に行きます。それと同じように自分が正しいと考えている人は、イエス・キリストを必要と感じないのです。自分には何も悪いことはない、何も不自由などしていないと感じている人は、キリストから学ぶ必要も何も感じないのです。ましてや、聖書が語る罪と聞いても何のことやら、想像もつかないでしょう。罪といえば、国家の法律を破る犯罪を指しているからです。そして警察に捕まった人が罪人なのです。変な言い方ですが、日本には警察に逮捕されなければ罪人にはならないという考え方が根底にあります。

同時に、日本人は親切であり丁寧であるという定評があります。実際に、わたしの周りにもクリスチャンではないですが、多くの親切な人たちがいます。犯罪率が非常に高くなったとはいえ、まだまだ日本は外国と比べて平和に暮らしていける国です。このような平和に満たされた世の中では、生き方について真剣に考えにくいかもしれません。その日、その日が平和に暮らせているのだから、すべてOKと考えてしまいます。

しかし、すべての人間は神の目からすれば、病人であり罪人なのです。その事実に気づく人がキリストの下に来て心の治療を受けるのです。最近、テレビでは健康、病気に関する番組が多く放送されています。そのような情報報道番組の中で重い病気の前触れについて話されます。私たちはそのような事を聞いて自分が実は重い病に犯されていると気づくことがあります。キリストを医者として例えていえば、キリストの話を聞いて私たちは自分が病人であり罪人であると気づくことが出来るのです。キリストは私たちの動機や心の奥底にある邪念を問いただします。このメッセージを聞いているあなたが、一度でもキリストの言葉を聞けば、なるほどと思うはずです。

目に見えない神は、目に見えない形で私たちに語りかけてきます。心に語りかけてきます。今は気づいていなくても、来週には気づくかもしれません。そのためにもまず、キリストの言葉を聴くために聖書を読んでみましょう。キリストは今もあなたに語りかけています。あなたを招いています。キリストは最強の名医です。私たち人間の心を癒し、新しい人生観、喜びと安らぎに満たされた人生を与えくださいます。心からお勧めします。ではさようなら、また来週。